ノイズ下の量子ダイナミクスの複雑性を測る新手法-純粋化に基づく新指標で混合状態のKrylov複雑性の不等式と速度限界を導出-
混合状態の複雑性が純粋化して得られる純粋状態の複雑性によって不等式で上下から制約されること、さらに熱力学的な量と結びつく速度限界が現れることを示しました。本成果は、ノイズにさらされている現実的な量子多体系や、熱的に振る舞うブラックホールの理解など、量子科学や量子重力の分野において幅広い応用が期待されます。
本研究成果は米国物理学会(APS)が刊行する学術誌『Physical Review Letters』(1月20日付)に掲載されました。
【ノイズ下の量子状態の時間発展の「複雑さ」を統一的に評価する新手法の提案】
量子コンピュータや量子センサーなど、現実の量子デバイスは外界から完全には隔離できず、ノイズや環境との相互作用によって状態は「混合状態」として記述されます。このとき時間発展は、理想的な閉じた系のようなユニタリ発展*2ではなく、不可逆的な非ユニタリ*3過程になり得ます。一方で、量子複雑性(特にKrylov複雑性)の理論は、純粋状態のユニタリ発展を対象とした定式化と演算子(行列)に対する定式化が独立に発展してきました。そのため、両者を同一の見通しで比較する一般的な枠組みは十分に整っていませんでした。こうした背景から、「ノイズ下で状態がどれだけ複雑になったか」を、定量的に評価できる統一的な枠組みが求められていました。
今回、立教大学とWürzburg大学の研究チーム(以下、研究チーム)は、量子情報理論における純粋化を鍵に、混合状態をより大きな次元の純粋状態に対応させることで、これらを同じ枠組みで扱える新しい複雑さの指標を提案しました。これにより、混合状態の時間発展を純粋状態のユニタリな時間発展の枠組みの中で評価することが可能になりました。
【混合状態の多様な純粋化を通して「どれくらい複雑になっていくか」を多角的に測る】
純粋化は、混合状態の自由度をより大きな純粋状態の量子もつれ(エンタングルメント)*4として埋め込む手法です。混合状態を「注目系+環境系」にまたがる純粋状態として表し、環境系を部分トレースすることで元の混合状態が復元されます。本研究では、同じ混合状態の時間発展に対しても、純粋化後の「全系の時間発展のとり方」には任意性がある点に着目しました。
研究チームは、(1) 環境系を発展させない時間非依存純粋化、(2) 注目系の変化をできるだけ打ち消すよう環境系も動かす時間依存純粋化、(3) 各時刻で純粋化を取り直す瞬間的純粋化の3つを採用し、それぞれに対応するKrylov複雑性を定義しました。ここでいうKrylov複雑性とは、与えられた状態が全状態空間のどれだけを時間発展とともに探索しているかを特徴づける量です。
これにより、密度行列(演算子)として見た混合状態の複雑性が、純粋化で得られる複数の純粋状態の複雑性によって不等式で挟み込まれることが分かりました。さらに、時間依存純粋化によって得られる純粋状態の複雑性は、元の混合状態の演算子複雑性と非常に似た振る舞いを示し、主に初期の混合の度合いに依存することがわかりました。
一般に、混合状態の演算子としての時間発展は計算が難しい場合があります。本手法は、より扱いやすいユニタリ発展の枠組みを活用して、混合状態のKrylov複雑性評価を可能にする点が特徴です。

図2:2量子ビット系とランダムアンサンブルにおける演算子複雑性と純粋化複雑性の時間発展の比較。
提案した不等式は、少数量子ビット系に加え、ランダム行列模型のユニタリ時間発展や、無限次元モデルにおける非ユニタリなデコヒーレンス*5過程でも、解析的・数値的に確かめられました。

単位時間に左右のもつれ(有効温度)が
増え、片方がリンドラー粒子(赤い点)
として放出され、複雑性を増加させる。
【熱力学とブラックホールへの接点:複雑性の速度限界】Krylov複雑性は、一般には観測量とは単純な関係になく、非線形で複雑な計算をして得られます。研究チームは、そこに直感的な物理描像があるかを調べるため、真空が熱的状態へ移る無限次元の非ユニタリ模型を解析しました。
その結果、純粋化状態が2モードスクイーズド状態*6で与えられるような調和振動子モデルでは、純粋化状態のKrylov複雑性が、熱的状態を定義する有効ハミルトニアン*7から決まる粒子数に一致することを示しました。これは、加速する観測者のウンルー効果*8やブラックホールの放射の文脈では、放射粒子数の増加が複雑性の増加として捉えられるという直感的な描像を与えます。
さらに、その増大率が(モジュラー)エネルギー*9やエントロピー*10といった熱力学量により上から抑えられる形になり、ブラックホール物理学で議論されるLloyd型の限界や量子速度限界に類似した関係が現れることがわかりました。
【相互複雑性で見える、ホログラフィック系(重力双対を持つ量子系)との違い】
相関(エンタングルメントなど)をもつ量子多体系では、部分系の縮約密度行列は一般に混合状態になります。本手法により、そのような部分系に対してもKrylov複雑性を定義して評価できます。
研究チームは、2つの領域の間に共有される成分として相互Krylov複雑性(mutual Krylov complexity)を定義し、2モードスクイーズド状態で表される熱場二重状態(ThermoField Double state)*11に対して、相互Krylov複雑性が劣加法的に振る舞うことを示しました。これは重力的な記述(重力双対)を持つホログラフィック系の体積から計算されるホログラフィック複雑性とは対照的な結果であり、相互Krylov複雑性が重力双対を持つようなカオス的な系と調和振動子のような可積分系を見分けるベンチマークになり得ることを示唆しています。

【今後の展望:ノイズのある量子系の複雑性の評価や重力双対の検証に期待】
本手法は、理想的な純粋状態に限らず、部分系や開放系として扱われる、実験で避けがたい混合状態や非ユニタリ過程にもKrylov複雑性を統一的に適用できる点が強みです。混合状態の複雑性を、計算しやすい純粋化された純粋状態側の指標で挟み込めるため、ノイズ下での状態変化の複雑性を簡便に評価する実用的な手法になり得ます。
同時に、熱力学や速度限界との関係、さらにホログラフィック複雑性の提案との差異は、量子情報・量子多体物理・非平衡熱力学・量子重力理論といった様々な分野からより深く調べる必要があることを示唆しています。今後は、より大きな多体系や強結合系において、これらの性質がどこまで普遍的かを検証することが重要な課題となります。
■ 用語解説 ■
*1 クリロフ複雑性(Krylov complexity)
状態(または演算子)が時間発展によって、ヒルベルト空間(または演算子空間)の中でどれだけ「広がるか」を定量化する指標。
*2 ユニタリ発展(unitary evolution)
閉じた量子系の理想的な時間発展。情報が保存され、可逆的な時間発展を与える。
*3 非ユニタリ(non-unitary)
ユニタリでないこと。外界との相互作用や測定、ノイズにより、確率や情報が系の外へ漏れると非ユニタリになる。
*4 量子もつれ/エンタングルメント(entanglement)
部分系同士が量子力学的に強く結びつき、片方だけでは状態を完全に記述できない相関。純粋状態では部分系のエントロピーがエンタングルメントの指標になる。
*5 デコヒーレンス(decoherence)
環境との相互作用で、量子状態の干渉が失われる現象。結果として混合状態が生じる。
*6 2モードスクイーズド状態(two-mode squeezed state)
2つのモード(自由度)が強くもつれた状態。ウンルー効果やブラックホールの放射に現れる。
*7 ハミルトニアン(Hamiltonian)
系のエネルギーと時間発展を決める基本量。ユニタリ発展ではハミルトニアンが時間発展を駆動する。
*8 ウンルー効果(Unruh effect)
加速する観測者は、真空を熱放射がある状態(温度をもつ状態)として観測するという効果。
*9 (モジュラー)エネルギー(modular energy)
ある部分系の混合状態ρから定まる「モジュラー・ハミルトニアン」K=-log ρに関する期待値のこと。熱力学量のように振る舞い、情報理論の不等式と関係する。
*10 エントロピー(entropy)
乱雑度(混合の度合い)を表す量。量子ではフォン・ノイマンエントロピーが代表的。
*11 熱場二重状態(ThermoField Double state; TFD)
2つの同じ系を用意して作る純粋状態で、片方だけを見ると熱的状態(温度をもつ混合状態)になる。ブラックホールや有限温度量子系のモデルを与える。
■研究助成■
本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業・特別研究員奨励費JP23KJ1154「量子相関構造に基づく時空創発と観測との関わり(研究代表者:森崇人)」、および若手研究 JP24K17047「量子操作と量子測定による量子重力におけるダイナミクスの解明(研究代表者:森崇人)」による助成を受けて行われました。
■論文情報■
Rathindra Nath Das, Takato Mori, ” Krylov Complexity of Purification”, Phys. Rev. Lett. 136, 030201
DOI: https://doi.org/10.1103/qgcx-wxpd
本件に関するお問い合わせ先
立教学院企画部広報室
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